心玉創業ヒストリー
前世の全盛の石炭に見切り
時代は移り、新規事業「ダスキン」への挑戦
事の起こりは「伊勢湾台風」だった。
昭和32年、心玉の創業者加藤雅示は父親が失敗したのと同じ事業を選び、半田市に「心玉燃料商会」を設立した。亜炭を中心にした燃料卸売業は、着々と軌道にのっていた。
ところが取引先の工場の多くが、伊勢湾台風で水浸しになり、燃料の代金も払われず、売掛金の回収ができない状態が続いた。
父親の友人の手を借りてなんとか危機は脱出したものの、この危機が再来する可能性もあり、卸売りはこりごり。石炭の全盛期時代から、現事業である「ダスキン」へシフトする挑戦を行う。
石炭と比べるとレンタルのモップ、キャビネット・タオル、フロアマットを主力とする「ダスキン」は小口の商いで、作業は繊細だが確実な取引ができ、順調に販路を拡大していく。
そして石炭事業を最高売り上げを叩き出した1969年に終える。
半田市から石炭燃料は姿を消した。あのまま事業を続けていたらと考えるとどうなっていたのかと考える。
自身も大怪我や大病を患ったことをきっかけに、「健康」であることの歓びを知った。
ダスキン事業の一角を使い、多くの人に健康の喜びを感じて欲しいと「美健サロン」を設立。
近隣の人々に無料開放し始めた。
後にダスキン事業の一環として介護事業にも参入するようになる。
心玉の歩み
株式会社心玉は、半田市を中心として愛知県においてダスキン事業などを通して長きに渡り地域の皆さまに愛され、支えていただいてまいりました。
これからも皆さまのお役に立ち、愛され続けられる会社でいられますよう、一層の努力を重ねて参ります。
1956
心玉商会創立
1964
心玉燃料商会に改称
1969
ダスキン半田創業
1970
燃料部門廃業
1973
株式会社心玉 設立
1975
学研ポピー
全日本家庭教育研究会 半田支部 設立
1980
株式会社心玉 本社ビル 竣工
ダスキン ウォーターコントロール事業 設立
1983
名古屋支店 開設
ダスキン シンタマに改称
1986
ダスキン シンタマ緑店 開所
1989
ダスキン創業20周年
加藤雅示社長が引退し 取締役会長に就任
加藤順三社長就任
1992
ダスキン メリーメイド東海店 開所
1993
ダスキン心玉ステージ 竣工
1994
損害保険代理店 ㈲心友 設立
損害保険代理店事業 創業
1995
有限会社心玉産業 設立
産業廃棄物 一般廃棄物収集運搬 創業
1998
損害保険代理店 ㈲心友 解散により
損害保険代理店事業 廃業
1999
マグロ屋 ㈲心倫 設立
めしや本店として食堂を開業
以後、マグロ専門料理店 とろや本店に変更
2000
FCサンタ事業
㈲心玉商業 こども服リサイクルショップ開業
FCサンタ事業部 加盟
2003
マグロ屋 とろや本店閉店により ㈲心倫 解散
FCサンタ事業 閉店
ダスキン メリーメイド名古屋みどり店 開所
2004
健遊館半田 開所
2007
通所介護事業デイサービス 開所(名古屋市)
ヘルス&ビューティー(化粧品)事業 設立
2008
ダスキン ターミニックス事業 設立
2012
ダスキン創設者 鈴木清一賞 受賞
2013
ダスキンヘルスレント知多半島 開所
2014
学研ポピー
全日本家庭教育研究会 解散
2016
ダスキンヘルスレント有松 開所
2020
加藤順三社長が引退し 取締役会長に就任
加藤大将社長就任
ダスキン ユニフォームサービス事業 設立
2021
居宅介護支援事業所設立
2022
健遊館桜山 閉館
2024
株式会社心玉 尾張支店 設立
ダスキンヘルスレント尾張小牧 開所
創設者 父・加藤 雅示との
思い出
代表取締役会長 加藤 順三
燃料屋からダスキンへ
私の幼少期の父は、筋肉質のちょっぴり小太り。角刈り頭にタオルのねじり鉢巻き。黒色のロイド眼鏡。前掛けをかけて重い石炭をビクに背負い、トラックで配達して真っ黒になりながらいっぱい汗をかいて一生懸命に働いている姿が印象的でした。
腰を悪くして重いものを持つことが出来なくなり、ダスキンに商売替えしたと聞きますが、それは経済成長によるエネルギーの大転換によるもので、風呂を石炭で沸かす家庭が減っていき、それに代わってプロパンガスや灯油が主な燃料とされていったのも大きな要因だったように思われます。
冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが三種の神器ともてはやされ、一般家庭に家電製品が普及されだした頃。
東京オリンピック開催、新幹線や高速道路なども次々と整備されていき、時代はまさに高度経済成長期。
そんな時にダスキンを始めました。
父は石炭まみれの作業着から一転して背広姿のビジネスマンに変わり、社員さんも社用車も年々多くなっていきました。
毎日様々なお客様が来てはいつも商売や金儲けの話をしていました。
昼も夜も忙しそうな父を見て、子供ながら仕事が順調なのだと感じていました。
祭りを通じた地域への貢献
加藤雅示=祭りと言っても過言ではないほど、祭りが大好きでした。
特に所属している下半田の南組護王車をこよなく愛していました。
子供のころから囃子方で、笛も小太鼓も大太鼓もある家は少ないと思いますが、よくお囃子笛を吹いていました。
そして「護王車はバックシャンだ」「後姿の五色の几帳がエェだろ~」「見送り水引きがドエリャエェ~」と女性を褒めるが如くいつもみんなに言っていました。
そして五年に一度開催される「はんだ山車まつり」を何よりも楽しみにしていました。
子々孫々まで曳きまわし出来るように山車を改修したり、自分の古希の祝いには山車大太鼓を寄付すると勇んでいました。
そうして公私ともに地域のために尽力する父の姿が、強く瞼の裏に焼き付いています。
凡事徹底
創業者 故 加藤 雅示
『どんなにちっぽけなことでも、それなりの意味がある。
それをおろそかにする人は、大きな事に対しても、やはりぬかりが生じてくる。
大・小の組み合わせからなる仕事を、完全に消化していくためには、
小さなことにも力をいれる心くばりが肝要だ。』